2017年01月01日

2016年雑感

紅白のゴジラがやはり茶番だったことを確認したところで(最初からわかっちゃいましたが、一応確認だけはしておきました)、2016年のまとめをしておきましょう。

実は、2016年は正月から読書日記をつけ始めていたのです。しかし、最近見直したら、5月の読書会を境にぱったりと終わっていました(笑)。その後は、会誌に寄稿した2本のための参考書ばかり。会誌が完成した後は、方向性を見失ったつまみ食い的読書ばかり。

前段が長いのですが、どんな人だかさっぱり知らないパスカル・キニャールという人(どういう経歴の人かは解説に書いてありますが)のコレクションが刊行され始めて、時間論という触れ込みの「いにしえの光」というエッセイならぬ詩文集のようなものをパラパラと読んでいると、兼好法師がこんなことを言ったなどと出てくるものだから、つい徒然草を読み直していると、たまたまこんな段にぶつかりました。

※キニャールが引用した箇所ではありません。そこがどこだかは今のところ不明です。しかし、こうして翻訳の中に日本の古典を見出す気恥ずかしさは、例えば日本人がセネカなど引用するとき、彼の地の方々も覚えるものなのでしょうか。

今日は、このことをしようと思っていても、ほかの急な用件が先に生じてそれに取り紛れて一日を費やしたり、(中略)あてにしていた方面のことは外れて、思いがけないことばかりがうまくいってしまう。面倒だと思っていたことはぶじに済み、たやすいはずのことがたいへんな心労となる。日々過ぎていくありさまは、前もって考えていたようにはいかない。一年の間もこれと同じである。一生の間もまたそうである。(第一八九段、小川剛生訳[角川文庫])


いやまったくそうだよなあ、と思い、去年の今頃ブログに書いた、老い易く学なりがたしという言葉もまた実感するな、と思いながらも、今年あれこれと考えたせいなのでしょうか、実はこうした言葉もそのまま納得しないようになっているわけです。

700年も前に書かれた言葉を、自己に類似したイメージとして「理解」する、感情移入して「身につまされる」ということはどういうことなのでしょうか。こうした「言表効果」というものは何なのでしょうか。

そうした疑問を覚えることなく、現代人は常なるものを忘れてしまったなどと賢しらにいうことは、もうできなくなっているのではないか、などと(これもややこざかしくも)思いもするわけです。

そんなひねくれたことを考えたのは、フッサールや、ウィトゲンシュタインや蓮實重彦やフーコーや、郷原佳以さんのブランショ論を読んだからだったりするのですが、反復とは変化なのだということを、歳とともに実感しているからかもしれません。「前もって考えたようにはいかない」ということのようです。

それにしても、今年は小説をあまり読みませんでした。もっと読むようにします。

映画は、人それぞれ好みはあるでしょうが「シン・ゴジラ」、それからアニメ「この世界の片隅に」が素晴らしかった。

2017年も宜しくお願いいたします。
posted by sansin at 00:23| Comment(1) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月27日

ガン・クラブ三部作の新訳について

ご無沙汰しております、石橋です。島村会長が直前の投稿でご紹介くださったように、遂に〈驚異の旅〉コレクションの刊行が始まります。文字通りの第一「弾」は、第二巻のガン・クラブ三部作。この三作を個人訳で一巻にまとめるのは世界初。フランスでも合本はありません。通しで読んでいただくことで色々と新たな発見があるのではないか、と期待しております(個人的には、物語間の微妙な齟齬が創作の進展に伴って必然的に生じる変化を浮かび上がらせて興味深かった)。特に、『地軸変更計画』と題された『上も下もなく』の初訳には、このタイトルをはじめ、様々な問題がありました。一概に訳者の非とするわけにもいかないのは、まずテーマ自体の複雑さが挙げられます。例えば、モーパッサンの専門家による以下の感想。

http://etretat1850.hatenablog.jp/entry/20081104/p1

「それにしても地軸変更が巻き起こすはずの大変動の説明がぜんぜん理解できないままなのであった」と慨嘆されておられますが、無理もない。まず訳者自身が十分に理解できていないまま訳してしまっています。僕の訳はこの点は正確度が上がっていますが、それでも一読すっと理解できるかどうかはわかりません。というのはヴェルヌ自身が完全にわかっているわけではおそらくなく、彼にとって厳密な意味での正確さより、物語化という形での彼流の理解の方が遙かに重要だったからです。この作品の原案といいますか、計画の大要と計算を提供したのはバドゥローという技師でした。彼はマニアックな性格だったらしく、計算はもちろん、彼自身がモデルとなった作中人物ピエルドゥーの設定に至るまで、事細かな提案書をヴェルヌに提出しています。そこでは月二部作の間違いが細かく列挙され、『上も下もなく』は原稿に目を通しておかしな点を指摘しています。後者については実に144点にのぼり、物語や表現のレヴェルの指摘にまで及んでいます(ヴェルヌという人はこういう介入を妙に誘発するところがおもしろい)。ヴェルヌは大半を受け入れていますが、そうではない箇所もある(微妙なのは人工言語ヴォラピュック語の洒落「ゾラピュック」で、挿絵版ではバドゥローの意見を容れているのに、最終ヴァージョンに当たる十八折判では残っている――あるいは残している――点。これはヴェルヌの意図と解釈して、本邦訳では底本に採用した十八折判そのままとしました)。しかし、月二部作の問題点についてはまったく頬かむりしています。そもそもヴェルヌは草稿やゲラでは、この二部作についても専門家の意見を聞いて修正を施していますが、それは極めて表面的なつじつま合わせに近く、いったん本になってしまったら「こっちの勝ち」じゃないですが、もう正確さは気にならないんですね……そういうヴェルヌの修正の性格がよく表れている例を次にご紹介しましょう。

『月を回って』の第三章。まず原文を掲げます。

C’était un disque énorme, dont les colossales dimensions ne pouvaient être appréciées. Sa face tournée vers la Terre s’éclairait vivement. On eût dit une petite Lune qui réfléchissait la lumière de la grande.[...]
[...] L’astéroïde passa à plusieurs centaines de mètres du projectile et disparut, non pas tant par la rapidité de sa course, que parce que sa face opposée à la Lune se confondit subitement avec l’obscurité absolue de l’espace.

物語の「核」ともいうべき謎の「第二の月」です。問題となるのは、 Sa face tournée vers la Terre(地球に向いたその面)、une petite Lune qui réfléchissait la lumière de la grande(大きな月の光を反射する小さな月)、sa face opposée à la Lune(月と反対側の面)の三つです。このうち三つめは若干説明を要します。この表現は、普通にここだけ見れば「月と向かい合った面」と取る方が自然だろうと思います。事実、「地球に向いたその面」が光っている以上、「月と向かい合った面」は光っていなくて闇に溶け込んだ、と自然に取れる。ところが、ヴェルヌは同じ表現をこの小説の中でほかにもう一ヶ所使っていますが、そこでは「〜とは反対側の面」という意味にしか取れないのです。つまり、ここでもその意味に使っている可能性が高い。そうすると、矛盾が生じはしないか? 少なくとも「大きな月の光を反射する小さな月」という表現は、「大きな月」が地球だとすれば、この時の地球がほとんど見えず、月は満月に近いので、明らかに変でしょう。

そこで草稿を見てみる。すると、ヴェルヌは「地球に向いたその面」を最初は「月に向いたその面」と書いてから「月」を消し、「地球」と書き換えていることがわかります。つまり、ヴェルヌは当初、第二の月が砲弾に急接近する時には、月の光で「強烈に照らされ」るはずだと思っていたことがわかります。確かにこの時、砲弾は地球の本影の中にありましたから、そう思う方が普通でしょう。僕もそう思って、これはむしろヴェルヌの勘違いによる修正ではないか、と思いました。そうすれば、まず「月と向かい合った面」が月に照らされた火球が砲弾に迫ったあと、「地球に向かい合った面」が暗い火球は闇に溶け込む、となってすっきりしますから。「大きな月に照らされた小さな月」とも整合性が取れる。間違いなく、これがヴェルヌの最初の意図でしょう。やれやれ、これにて一件落着、かと思いきや……

椎名建仁さんは、バドゥローが書いた『上も下もなく』の補遺を翻訳してくださったほか、『地球から月へ』のサロス周期の問題も解決し、いわば日本語版のバドゥローとアンリ・ガルセ(ヴェルヌの従兄の数学者で、月二部作のアドヴァイザー)の一人二役です。椎名さんによれば、ヴェルヌの訂正は正しいのでは、とのこと。とすれば、おそらくここはガルセか誰かの指摘で直したのです。が、おもしろいことに、その場合でも「月とは反対側の面」の解釈はこのままでいいらしい。火球は近づいてくるときは地球の本影の外にあり、太陽に照らされて満月のように光り輝いている。しかし、砲弾とすれ違う時は、この光は消え、月にだけ反対側を微弱に照らされ、おそらくほとんど見えなくなる。すれ違った直後もこの状態が続くので、完全に暗い「月とは反対側の面」は闇に消える。「月とは反対側の面」はヴェルヌの当初の誤解のままなのですが、この場合、たまたま「正解」だったんですね。明るい面が実は途中で入れ替わっている。ところがヴェルヌという人は、表面上の辻褄合わせしかしないので、こういうおもしろいことが後から出てきてもまったくくだくだ説明してくださらない。おまけに「大きな月の光に照らされた小さな月」という当初の誤解をもろに反映した表現を(おそらく表現自体のおもしろさに執着して)消さない。まったく、これでは訳者が混乱しても仕方がないではありませんか!

というわけで(?)、ヴェルヌのせいですから、本文の「誤訳」はそのままにしています。まあ端的にもう直す時間的・物理的余裕がなかったんですが、「あとがき」にも上の解釈は書いていません。ヴェルヌの「テクスト的現実」のレヴェルではこの解釈が正解といっていいと今のところ確信していますが、ただ、どうも癪に障るので、どなたか、フランス語が読めて天体の動きのシミュレートがPCでできる好事家の方がいらっしゃいましたら、ぜひ、「実際には」どう見えるのか、再現してはいただけないでしょうか。この「第二の月」を発見した「プティ氏」の論文が実は今はネットで読めるので、軌道の数値もわかるのですよ! いや、衷心から全国(全世界)の天文マニアのご協力を乞う次第であります。

http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5719191x/f457.image
posted by ishibashi at 14:54| Comment(2) | 今日の誤訳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月11日

「ジュール・ヴェルヌ〈驚異の旅〉コレクション」いよいよ発売! そしてアニメ雑感(ネタバレあり)

なんだかんだで、12月に入ると寒くなってきました。北海道は大雪とか。関東も北風が厳しいです。

さて、以前も告知して、オオカミ少年状態でしたが、インスクリプトから「ジュール・ヴェルヌ〈驚異の旅〉コレクション」全5巻の刊行がいよいよ開始されます。第一回配本は、これまた随分昔に告知しましたが、『地球から月へ 月を回って 上も下もなく(完訳ガンクラブ三部作)』です。刊行予定は来年1月12日。

http://www.inscript.co.jp/verne

月世界旅行2部作と、キャラ再登場の第三作「上も下もなく」の3作品が1巻にまとまった豪華版。少々お高いですが、挿絵もない文庫本が1000円以上して当たり前の昨今、挿絵と補遺、詳細な訳注と解説がついて5800円(税別)というのはむしろ安い。(あ、これも前に言ったかな・・・)

ヴェルヌの邦訳は、今後はこれがスタンダードになるであろう必携書です。お楽しみに。横の書影をクリックして、アフィリエイトから入ってご購入いただくとなお嬉しい。イジキタナサスギですか(笑)

ヴェルヌ研の年内の活動はまだ続いているのですが、そろそろ今年も回顧されてしまう時期になりました。

※以下雑談です。しかもアニメ2作品のネタバレありです。ここで語ることかね、と自分にツッコミつつ(笑)

どうやら最近、流行語というのは「話題になったことに関わりのある語」ということらしいのですが、結局、多くの人が何の気なしに面白がって使う、いわゆる「流行語」というのはもう滅びたということのようです。これは明らかに日本語の自生力が弱っているということだと思うのですが、状況を一言で象徴するには、社会が複雑化しすぎているということなのかもしれません。

「君の名は。」というアニメも、内容を一言で象徴する題名や台詞はなかったように思います。筋立てや構成が非常に良くできた映画で、「セカイ系」と言われる大きな話と、「日常系」と呼ばれる身近な話が絶妙にブレンドされています。パラドキシカルな状況を描いていますから、どこかの評で出ていたように矛盾は当然残ります。そして、良くも悪くも見終わった後に余韻がほとんど残らない。アトラクション的なライド感とカタルシスはありますが、それだけと言ってもいい。
しかし、よく考えるとそれでいいのです。この作品に観客が感情移入するきっかけは、冒頭の、「目が覚めた時になぜか涙が流れている」という、想起されないイマージュへの切なさや悲しさという感情の共有であって、逆に言えば観客と作品世界の接点はそこしかないと言ってもいいのです。だから、何も残らなくても感情の記憶だけが残る。

逆に、見終わった後の方が感情をより揺さぶられるほどで、全く逆の印象を持つのがもう一つのアニメ作品「この世界の片隅に」です。劇場を出ると、平和な街の様子に安堵します。作品世界と現実のつながりが地続きに感じられるのです。

もちろん、「青春ファンタジー」と分類されるだろう「君の名は。」と、リアリズムで戦時下を描いた「この世界の片隅に」では感想が違うのは当然でしょう。しかし、これもよく考えると、実はこの2作品は似通った部分がいくつかあります。

「この世界・・・」で失われ、最後に登場する「右手」が描き出す世界は、失われた記憶の風景であり、主人公にはもう描けなくなったために、自分がその「器」として記憶しておこうと決意する世界です。
(ですから、それは主人公が記憶しているだけではなく、想像した世界も含まれています。この関係性は、実はアニメより原作を読んだ方がよく分かります)

この、「失われた記憶のスケッチ」という主題は「君の名は。」にも出てくる。しかもそれは、死者の記憶なわけです。この、「想起する装置」として「身体の分裂」が起こるという主題が共通しているのです。
身体の一部が記憶を呼び起こすという主題は、「君の名は。」では別の形で反復され、少年が少女の世界に繰り込まれるための装置としても機能します。

そこで、黄昏時=誰そ彼どきという特権的な出会いの時空間が現出するのですが、「この世界・・・」のラストで、「右手」によって導かれた子供が主人公と出会うのも、やはり黄昏時なのです。この子供との出会いは、よみがえり、分身の主題も引き寄せます(もちろん、この子供はその前に出ていた子供とは別人なのですが)。「この世界・・・」の原作では、その直前に過去からの出会いがもう一つ描かれていて、「右手」の機能は明らかです。
「この世界の片隅に」は、リアルな描写とともに、主人公の内面のような、そうでないようなこのファンタジーの部分も見ていく必要があります。

その他にも、巨大な災厄が空から降ってくるという点、一方は湖、一方は内湾ですが、大きな水面を見下ろす場所と視点が主な舞台になっている点など、主題的な共通項はまだあります。
なぜこのように似通うのか、という理由はすぐに解き明かせるものではありませんが、両作品とも、個々人の感情や言葉では解決し得ない、言い表せない大きな出来事に対して、どのように振る舞うのかという模索の物語、いかにして世界と和解するのか、という問題を抱えた作品であることが大きいのでしょうか。

大規模商業ベースのエンタメと、小規模上映のヒューマンドラマという性質の違いはありますが、既存の言葉や物語構造が処理しきれない事象に対するアプローチとして、フィクションの技法が似ているということは指摘できるのではないかと思います。
posted by sansin at 12:18| Comment(3) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする