2017年03月26日

人はなぜ物語を求めるのか

3月も終わりに近づきました。早いものです。

目まぐるしく世の中が移り変わっていくのにも付き合いきれないな、と(個人的に)思いつつも、ヴェルヌ研はそろそろと次の活動に向けて準備中です。

忙中閑あり、とは言いますが、やはり時間があるとついテレビを見てしまうのは世代なのでしょう。最近の若い人はTVのコンテンツをネット動画で見るそうで。

習慣で見ている朝ドラは「べっぴんさん」がもうじき完結。脚本が悪い、とネットでは否定的なコメントが目立ちますが、それは先入観も多々あるのでは、と思っています。

まず、ドラマは脚本どおりに映像化されるわけではありません。ヒットした「あまちゃん」でも、シナリオ集を読むと、ずいぶんセリフや場面が変えられていることがわかります。「べっぴんさん」のHPを見ていても、引越しの場面で脚本は軽トラックだったのを自転車に変えたという裏話が紹介されたりしています。役者さんのインタビューを読んでも、ずいぶん現場でアドリブが入ったりしているようです。演出家や役者の解釈が入ると、おそらくその後の脚本にも影響が出るでしょう。

もちろん、シェイクスピアでもチェーホフでも、書かれたとおりにはならないわけで(書かれていないことだっていっぱいある)、それがお芝居というものでしょう。だから、全部脚本のせいにはそもそもできないのではないでしょうか。

もう一つは、どうやら俳優の拘束期間が、細かく決められているようで、それを超えて出番を作ることができないということ。民放のドラマ3か月分は、朝ドラの放送時間数でいうと1か月半程度です。きっちりその期間だけ出演して、あとは全く出てこない、というと、主人公の人生にそこだけしか関わらない、という不自然な設定になるのは否めないのですが、最近はそうしたキャスティングが多い。そんなことは脚本のせいではないでしょう。

個人的には、1週間刻みで事件が持ち上がり、解決する過程で主人公の人生が段階的に変化していく、という割り振りのはっきりした構成ではなく、何週も前の伏線を忘れた頃に回収するような今回の話の作り方はちょっと面白く、また点を取っていくストライカーというよりは、最初にパスを出してゲームメイクをしていくような、ちょっと引いたタイプの人物を主人公に据えたあたりはチャレンジとして、もっと評価されていいのではないかと思います。

長々と書いて、何が言いたいかというと、朝ドラほどメジャーな枠だと、ちょっと物語が定型からはみ出すだけで、人は違和感を覚えるということです。

人は、朝ドラとはこういうものだ、という先入観を持っています。主人公はこんな人物、物語はこういう構成と展開、この先入観は根深いものですし、朝ドラに限らず、多くの物事に対して人は定型的な理解をしている。

そうした傾向は、人が因果関係としての物語を作る「病」を持っているからだ、と論じているのが、千野帽子著『人はなぜ物語を求めるのか』(ちくまプリマー新書)です。「プリマー新書」は中高生向けの新書のはずですが、ナラトロジーや認知心理学のかなり難しい考え方を噛み砕きながら、深いところまで議論を掘り下げています。

「病」というと大げさなようですが、人がいかに自分の「物語」で自分や自分を取り巻く環境や社会を見ているか、その「ゆがみ」を指摘していくその手さばきは冷静で、かつ相当ラディカルです。いかに自分が、もっというなら社会が、「物語」に「毒されている」か、考えさせられます。久々にお勧めしたい一冊です。

ただあえて言いますと、私としましては、個人が自分のために求める物語というのは、ナルシシズムとの距離感の問題だと思っています。ですから、本書の主張はよく分かるものの、人が物語を必要とする切実さ、という問題はもう少し深いように思います。もちろん、それがわかっていて、「物語」への執着からいかに脱け出すのか、ということを本書は説いているのではありますが。

その一方で、そう言いつつも人は、昔ほど物語が「うまく」ない。今や万人が納得し、共有する因果関係としての「物語」を作ることはますます困難になりつつあるように思います。

つまり、「ゆがみ」はより大きくなっている。そこが問題なので、もう少しそこに踏みこんでほしかったとも思うのですが、それは求めすぎかもしれません。



posted by sansin at 11:02| Comment(0) | 今日の推しコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月27日

夏の雑談

みなさまこんにちは。

ヴェルヌ研は5月の読書会を終え、今は各自が次号会誌へ投稿する準備中(のはず)。このブログもまたずいぶん間が空いてしまいました。

世の中は色々なことが起こりすぎて、まあそれに対して個人的に言いたいことがないわけではないのですが、このブログは「基本的には」ヴェルヌに関係あることを会員が投稿し合うものですので控えます。

最近、ヴェルヌ関連でトピックスがあるとすれば、やはり角川文庫から「海底二万里」が渋谷豊氏の新訳で刊行されたことでしょう。映画化の情報が流れ、最近の古典新訳の気運に乗っての出版ではないかと思います。角川は良くも悪くも、安価な電子書籍が同時にリリースされるので、手に入れやすいことは確かです。

若い方々に親しんでいただくためでしょうか、表紙は現代風のイラストで上巻がネモ船長、下巻がアロナックス、ネッド・ランド、コンセイユの三人が描かれています。下巻の三人は原書の挿絵に慣れていると違和感がありますし、本文中の描写とも少し違うような気がしますが、まあいいでしょう。

逆にネモ船長は、イメージが固定しているようで、それほど違和感がないのが却ってすごいということかもしれません。

原書の挿絵は岩波少年文庫の私市保彦先生訳などでご覧いただけます。

文体はおそらく初めてだと思いますが、語り手アロナックス教授の一人称をですます調で記述しています。これについては好みの問題もあって判断がなかなかつかないところではあります。特にクライマックスの崇高にまで高まる緊張感が果たして表現し得ているか、よく読み込んで比べてみるのも面白いかもしれません。

また重要なことは、日本で初めて、プレイヤッド版を底本にした翻訳であるということでしょう。ガリマール社のプレイヤッド版といわれる叢書は、訳者後記にもあるとおり、収録されれば殿堂入りしたようなもので、2012年に収録されたヴェルヌも、本国で古典作家と認定されたと言えるでしょう。

もっとも、当研究会の熱心なフォロワーのみなさまは、ヴェルヌの原書に通常単行本と挿絵版の2種類があって最終版が明確でないこと、草稿や複数種の刊行本の異同を検証した、厳密な校訂版がフランスでも未だに存在していない、ということもご存知かと思います(ご存知なくても仕方ありませんか)。

石橋正孝さんの研究によれば、「海底」については、ヴェルヌが最終的に校正したのは通常単行本の可能性が高いということで、これに依拠した邦訳は今のところ一種類しかないのではないか(岩波少年文庫の旧訳)とのこと。この辺については、会誌第5号の石橋さんの論考をご一読ください。また、石橋さん著「〈驚異の旅〉または出版をめぐる冒険」(左右社)も是非。

本国でも挿絵版を校訂するのが一般的で、プレイヤッド版も挿絵版が元になっていますから、草稿研究の成果が校訂や翻訳に生かされるのはまだこれから、という状況です。

映画化となればあちこちの出版社から邦訳が出て(「ジャングル・ブック」が三社から一度に出る奇怪)、一時的に消費される、ということの繰り返しは、「海底二万里」ほどの作品についてはもう十分ではないか、と考えます。厳密な校訂を経た研究版と、それを元にした翻訳が出る日が待たれます。その時初めて、ヴェルヌは古典作家としての地位を確立できるのかもしれません。
最近のSFマガジンで「ハヤカワ・SFシリーズ」(その昔「銀背」と言われた版)の解説が特集された際、「地底旅行」をめぐって「ハテラス船長の冒険」、「氷のスフィンクス」も地底旅行ものだと紹介されていて大変残念に思いました。どちらも地底になど行きません。「ハテラス」は北極、「氷のスフィンクス」は南極に行くのです。

まだまだ、ヴェルヌは知られざる作家と言えるのではないでしょうか。

「氷のスフィンクス」の元ネタ、エドガー・アラン・ポー「アーサー・ゴードン・ピムの冒険」については、集英社文庫ポケットマスターピース「E・A・ポー」に巽孝之先生の新訳が収録されています。解説で、最新の研究を盛り込んだと銘打たれていますので、これは改めてよく読んでみたいと思います。

ポーのように、「マスターピース」としてヴェルヌが取り上げられる日はいつか来るのでしょうか?


posted by sansin at 10:36| Comment(4) | 今日の推しコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月20日

「アインシュタインの時計 ポアンカレの地図」

前回に続き、会誌10号の特集寄稿に関連した書籍をご紹介。

この本については、10月発売ということで、書店で発見したのは投稿後だったのですが、もう2ヵ月前に目を通していれば、投稿の内容は確実に変わった本。

ピーター・ギャリソン「アインシュタインの時計 ポアンカレの地図」(松浦俊輔訳 名古屋大学出版会刊)。

アインシュタインの相対性理論が生み出された背景を、科学理論の発展のみならず、当時の産業や社会思想の状況に求めています。特に帝国主義政策化の交通・通信の発達に伴う「時計の同期」、すなわち標準時の制定とその技術的な実現(結局、無線通信が実用化されるまで精密な時刻同期は実現しなかった)が時空の相対性というアイディアに深く関わっていたという指摘は大変興味深い。

なにしろ、1870年代から始まった標準時の制定をめぐる各国の争い、経度の確定のための世界各地の測量における、あまりに脆弱な電信ネットワークと劣悪な環境での苦難など、読み進めるほどにヴェルヌ的要素が横溢します。

そして、本書の主役であるアンリ・ポアンカレ(解説はアインシュタインと相対性理論が結局は主役みたいに書いてますが、ポアンカレの方が主役としか読めません)ですが、経歴と業績がかなり詳しく書かれています。彼の評伝は日本では適当なものが見当たらないようで、それだけで大変興味深い内容です。

数学の「ポアンカレ予想」で有名なトポロジーの創始者とされるポアンカレですが、ヴェルヌと息子ミシェルが裁判に巻き込まれたときに弁護を務め、後に大統領になったレイモン・ポアンカレの従兄にあたります。数学者・理論物理学者であっただけでなく、アンリは国立理工科学校「エコール・ポリテクニーク」のエリートとして、国家の科学技術政策に深く関わっていました。当初技師として鉱山の監督を務め、キャリアを伸ばして経度局の局長に就任します。経度局こそ正に、地図と時刻を定める国家機関であり、その政策は産官学にまたがる影響を持つのです。その中で、アンリは時間とは規約であり、複数箇所における時間の同期=「時計合わせ」の関係性そのものでしかないと看破します。しかし、エーテルを否定するところまではいかず、アインシュタインに相対性理論の着想を持っていかれた形になります(特殊相対性理論は1905年発表)。ポアンカレ残念。二人は同時代をすれ違いながら、ほとんど接点のないまま1912年にポアンカレが亡くなります。

ポアンカレはアインシュタインの理論を肯定しませんでしたが、著者ギャリソンはモダニズムの二つの形式がすれ違ったのだと論じています。

ギャリソンが参照するポアンカレの論文「時間の測定」は、岩波文庫から翻訳の出ている「科学の価値」(吉田洋一訳)で読むことができます。ポアンカレの主著は、「科学と仮説」「科学の価値」「科学の方法」と、全て岩波文庫で読むことができるのです。さらに、晩年のエッセイ集「科学者と詩人」も、今春リクエスト復刊され、今はポアンカレの主著作をどれも店頭で買える好機と言えます。

実は、私は自由投稿の方でケルヴィン卿(ウィリアム・トムスン)について触れるため、「科学者と詩人」に収められた追悼文を参照していました。しかし、並んで収録されている「砲工学校校友」は読み飛ばしてしまっていました。「砲工学校」こそエコール・ポリテクニークであり、校友とはいわゆる「ポリテク生」なのです。ギャリソンはこのエッセイに見られる「ポリテク」たちの国家技師としての自意識を見逃していません。

そうすると、本書の内容が直接関わるのは〈驚異の旅〉諸作中では何といってもガンクラブ三部作の第三作「上を下への」(1889)でしょう。主人公の一人ピエルドゥーは正に「ポリテク」だからです。鉱山技師であり数学者という職業もポアンカレと重なります。
前二部作(月二部作)に出てくるフランス人がナダールをモデルにした冒険的なアマチュア、ミシェル・アルダンだったのに対し、「上を下への」では官僚コースを歩む国家技師に変わっているところに時代の変化があります。会誌7号ではアルダンの代わりにガンクラブを先導するのはアメリカの未亡人エヴァンジェリーナ・スコーピッドではないかと論じましたが、否定する立場としてのピエルドゥーの役割も無視できないということでしょう。(ピエルドゥーのモデルはヴェルヌの知人のようで、ポアンカレではありません)
さらには、北極の競売をめぐる各国のドタバタは、当時の標準時をめぐる争いがどこかに反映しているかも知れない。『八十日間世界一周』はまさに時差が主題でしたが、その後『征服者ロビュール』(1886)に日付変更線に位置するチャタム島を取り上げるなど、ヴェルヌにとっては継続した関心事であったろうからです。

こうして見ると、本書の内容は〈驚異の旅〉全体を通底している、「世界の記述」という主題と、同時代的に密接して関わっていることがよく分かります。ギャリソンはアンリの甥の手紙を紹介して述べています。
「ポアンカレが生涯、探検記や旅行記を熱心に追いかけていたことを語っている。ポアンカレの仕事はすべて、科学の内と外で、「世界地図の白いスペースを埋める」という欲求を特徴としていたのだ」(267ページ)

冒頭書いたように、この本を先に読んでいれば、特集用投稿で社会背景に触れたに違いないですし、自由投稿では「時計の同期」と、ポアンカレの名前をどこかに入れたと思います。

ちょっとお高い(税別5,400円)のと、ポアンカレの前史であるからか、電信ケーブルについてはケルヴィン卿に全く触れていなかったり、途中、時間軸を行ったり来たりしてもたつくところがあって、もうちょっと整理できるんじゃないかと思ったりするところもありますが、ヴェルヌ関連本として推していいと思います。岩波文庫のポアンカレの諸作もどうぞ。

ちなみに、「科学と方法」の終わり近くに、もうじきヴェルヌが想像で書いた地球の空洞が証明されるだろう、という記述があってちょっと驚き。地底探査が本格化するのはポアンカレが亡くなってもう少ししてからのようです。ここでもちょっと、ポアンカレ残念でした、ということで。
posted by sansin at 14:09| Comment(1) | 今日の推しコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする