2016年04月24日

ちょっと気になること

こんばんわ、久しぶりの投稿です。
いままで購入したヴェルヌ関連書などで、アマチュアレベルのヴェルヌファンとして充分満足していたせいでしょう。ヴェルヌネタで書くことが少なくなってしまいました。刊行が長引いている「ガンクラブ3部作」等の出版時期が分かれば、ネタも出てくるのでしょうけれど…。

三つお訊ねしたいことがあります。
最近、岩波文庫「ライン河幻想紀行」(1842年)を再読していて気付いたことがありました。
後半に収録されている童話「美男ペコパンと美女ボールドゥールの物語」のなかに(…メールストロームのそばを通っていることが分かりました。)とp236に記述があります。

ポオが短編「メールストローム」を発表したのは1841年。ユゴーの「ライン河」は1842年ですから、ポオが早かったのは分かります。ちょっと気になったのは、ユゴーはポオを意識したのかどうかということです。

 さらにポオはディケンズを意識していたらしいことも知っています。
ポオの「黒猫」は1843年。岩波文庫「ディケンズ短編集」に収録されている短編「チャールズ二世の時代に獄中で発見された告白書」は1840年発表。この場合はディケンズが早かった。
ドラマの後半がよく似ているので、ポオが意識したのかどうかということです。

メールストロームがらみにとりわけ好奇心が偏っていますけれど、ヴェルヌはユゴーびいきですよね。またポオの影響もある。「アーサー・ゴードンピム」の続編「氷のスフィンクス」を書いたぐらいですから。この場合は二人の影響なのでしょうか?
posted by Cyrus Harding42 at 22:42| Comment(2) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月28日

総会へ向けて

筒井康隆氏がブログで、タイトルを「日録」としているが最近「月録」になってきた、と述懐されていますが、当ブログもいささか似たような感を呈しております。ちょっと本業にかまけていると、あっという間に日々は過ぎて行くものです(笑)。

3月20日には総会があり、その後引き続き会誌の合評会もありますので、10号の読み直しもそろそろしなければいけないのですが、まだこれから、という状況。

読書も滞りがちですし、前にも書いたかもしれませんが、最近ますますいくつもの本を少しずつ読んでいるので、なかなか読み終わりません。
今年に入って最後まで読み切ったのは、ウィトゲンシュタインの「青色本」(大森荘蔵訳、ちくま学芸文庫)とフッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」(細谷貞雄・木田元訳、中公文庫)の2冊だけ。

まあ、この2冊が難物だった、というのはあるのですが・・・それでも、2冊ともウィトゲンシュタイン・フッサールの著作の中では読みやすい方であるはずなのです。「青色本」なんて薄い本ですし。

ところが、この「青色本」は訳者の補訳・補注が煩わしいことこのうえなくて余計な時間を食いました。ウィトゲンシュタインの英語がぶっきらぼうなところがあって、そのままだと日本語にならないから、という理由で補訳が多いのですが、特に後半になると、訳者が明らかにウィトゲンシュタインの主張についていけないがために頓珍漢な補訳になっているとしか思われない箇所がありました。
この辺は永井均も「ウィトゲンシュタインの誤診 「青色本」を掘り崩す」(ナカニシヤ出版)という本の中で注意をうながしています。もっとも、この永井の解説本も、自身の独我論に引きつけた解釈が多いので、何か違うなあ、という印象。

読んだ限り、ウィトゲンシュタインは、思考とは言語の操作による「表現」でしかない、という簡潔な主張しかしていないと思うのですが、どうも誰もが、そうは言っても人間の内面とか感情とか、言語表現以前のことがあるはずだ、という先入観を捨て去ることができないようです。

ウィトゲンシュタインの言うとおりなのかどうかは知りませんが、彼は多分そういう主張で、意味やイメージなどというのはその言語が通用する範囲での(後付けの)規則でしかない、と言っているのです。

これと全く真逆のことを言っているのがフッサールで、彼は世界を人間が知覚するための原ー意味のようなものがあるはずだ、ということを手を替え品を替え考え続けます。これを読むのもしんどい。

特に、人は他人の痛みをどう理解するのか、という事例をウィトゲンシュタインもフッサールもとりあげていて、まさに真逆の議論になっているのはおそろしくも面白い。書かれた年代を考えると、どうもウィトゲンシュタインがフッサール現象学を仮想敵にしていたように読めるところもありました。

その他、今読みかけの本を一部挙げると、

郷原佳以「文学のミニマル・イメージ」(左右社)ブランショ論。去年からの宿題。
山城むつみ「ドストエフスキー」(講談社文芸文庫)これも。

安岡章太郎「文士の友情」(新潮文庫)箸休め。
阿川弘之「鮨 そのほか」(新潮文庫)これも。
・最後の出版作2編を箸休めとは失礼なようですが、第三の新人たちの文章は構えずに読めるのです。

黒柳徹子「トットの欠落帖」(新潮文庫)こんどNHKでやるドラマの予習。信じ難いエピソードを寝る前に一話ずつ。
・「トットチャンネル」も新装版がでました。余談ながら制作発表のニュースを聞いた途端に、主演は満島ひかりだろうと思ったのですが、当たったようです。

昨日から読みはじめたのは、

荒木雄太「これからのエリック・ホッファーのために」(東京書籍)在野研究者とはどうあるべきか、を先達16名の小伝により探るという本。著者自身、在野の研究者。
・私自身を在野研究者だと思ってはいません(ただの愛好者[アマチュア]です)し、エリック・ホッファーは「研究者」ではなく「哲学者」だったのだろう(そもそもホッファーのような人物が何かのロール・モデルになり得るとも思えませんが)、とも思うのですが、本業にかまけず(笑)好きなことをするにはどうするのか、という興味本位。

個人的な近況報告をこんなにだらだら書いていいのか、とも思うのですが、ここから少しずつヴェルヌ研究への新たな展開が開けていくのです・・・ほんとかな。
posted by sansin at 17:35| Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月27日

冬物語

大寒を過ぎ、ことさらに寒くなりました。いつまでも「年またぎ」と言っていると脚が伸びてしまうので(笑)、特別話題はありませんが雑談を少々。

何回か前にご紹介したディネセン「冬物語」(横山貞子訳・新潮社)が出ています。こういうものはじっくり読むべし、ということで全部は読んでいませんが、訳者の後記を読むと、墓碑にはカレン・ブリクセンとあるそうで、ご紹介した際に離婚したからブリクセンも筆名だろうと書いたのは私の誤解だったようです。ここに謹んで訂正をいたします。

アフリカから帰国後、第二次世界大戦中に書かれた短編集には、強い意志で厳しい状況を乗り越えようとする人々の姿が多い、と。それは読んでみなければ分からないものの、歴史的な出来事が無名の人々にあたえる悲惨さ、あるいは単に年月があたえる試練をめぐって、ディネセンが物語を紡いでいたことは、後年の「バベットの晩餐会」など読んでも理解されることでしょう。

ハンナ・アレントは「暗い時代の人々」の一章をディネセンに割いていますが、運命を物語として実現させるという思想をディネセンの中核に見ることはいささか違うように思います。それでは、彼女とアフリカとの遭遇という「出来事」を理解することはできないでしょう。

「暗い時代の人々」はもちろん、ベンヤミンやブレヒトについてのエッセイに読みどころがあるのですが、ベルグソンといい、ヴァレリーといい、チャペックもしかり、ナチス・ドイツの支配下で、あるいはスターリン政権下で、その業績にふさわしからぬ形で人生を終えた人々は多いわけです。

そういえば、チェペックの最後の長編も邦訳が刊行されるとか。そんな風に、網目をたどるように読書遍歴は続くのです。筒井康隆「モナドの領域」からリオタールを読みはじめ、さかのぼれば文庫クセジュ「現象学」から始まり、と、きりがないのですが、やめられないのです。
posted by sansin at 00:00| Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする