2016年09月10日

角川文庫『海底二万里』感想

角川文庫『海底二万里』上下(渋谷豊 訳)
 
 遅ればせながら、角川文庫『海底二万里』上下を最近購入いたしました。映画の情報もこの解説が発端だったのですね。これで『海底二万里』は東京創元社や、集英社文庫、岩波文庫、新潮文庫、ハヤカワSFシリーズ(村上啓夫・抄訳)福音館書店(箱入り&文庫)偕成社文庫(大友徳明訳)Naval Institude Press(ウォルター・ジェイムズ英訳)こんどの角川文庫新訳も入れて10巻になってしまいました。
 
 『海底二万里』の翻訳本が増えると、つい比較するのは豊かな文章表現です。ティントレラはツノザメの種類と分かってから、さまざまなサメの名称に「どれがヴェルヌの指摘するサメなんだろう?」とロマンを馳せています。角川文庫ではタントレア。思わず「何これ?」サメの具体的な名称に困ったのでしょうね。

 もうひとつ「大ダコ」の章で比較してしまうのは、コンセイユとネッドの面白い掛け合い。(ウォルター・ジェイムズ英訳)では「oh,great! Ned burst into laughter."Mr conseil has put me in my place"」(P346)(電子辞書の英和辞典で put 〜 in 〜's place"は(高慢をくじく。身の程を思い知らされる)とありますから、それぞれの訳者の表現術に感服してしまいます。
「こいつは愉快だ。〜略〜コンセイユ先生に煙に巻かれてしまった!」なかでも荒川浩充の訳がユーモアがあって気に入っています。50代の読者になると、いまは使われない古い表現に愛着を感じますね。

 それから、今回の角川文庫の新訳は予想外の面白さがありました。文語体ではなく、口語体の(ですます体)ですね。ですます体ともなると、当然文語体の熟語とそりが合わない。こなれた日本語が必要になりますから。その点で、こうも表現が変わるのかと豊かな日本語の刺激を受けています。
 翻訳うんぬんについて生意気書いてしまって申し訳ありません。つい熱くなりまして…。続けての投稿すみませんでした。
posted by Cyrus Harding42 at 19:34| Comment(1) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月05日

ちょっと気になったこと

このところ「海底二万里」(角川文庫)の新刊が妙に気になっています。何に触発されたのかと。来年公開とされている映画「海底二万里」だとしたら、この映画も何に触発されたのかと。

ヴェルヌの生没年から計算してみます。生まれた年から計算すれば、いま188年。没年1905年から計算すれば111年。これから考えれば、近いうちにやってくる生誕190年に備えてのことだろうかと妄想しています。
国内の刊行物だけで考えれば、『ジュール・ヴェルヌの世紀』や復刻された『ジャンガダ』『黒いダイヤモンド』『緑の光線』等の影響だろうとも考えられますし。

もう一つの疑問。ディズニーはヴェルヌ映画権を独占していたことでも知られていました。来年公開の映画「海底二万里」は20世紀FOX製作だとか。アーウィン・アレン監督「気球船探検」1962年も20世紀FOXだから、(このDVD持っています。)ディズニーはよく権利を手放したな〜と思っています。

ディズニーが手掛けたヴェルヌ映画はなんかお子様向け。「海底二万マイル」「地底探検」「センター・オブ・ジ・アース」「80デイズ」等。
最近DVDを確認して分かったけど、映画「80日間世界一周」はずっとディズニーの最高傑作だと思っていたら、ワーナー映画だったんですね。20世紀FOXの映画といえば、「スターウォーズ」や「アルマゲドン」等観客動員を見込んだ超大作映画を期待させるから、来年公開「海底二万里」も楽しみになってきました。
posted by Cyrus Harding42 at 18:27| Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月20日

金森修先生を悼む

5月26日に、元ヴェルヌ研会員で、東京大学大学院教授の金森修先生が亡くなられました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

金森先生はごく初期に参加されており、会誌第二号では読書会にも参加されていらっしゃいます。
私は創立三年目から活動に参加しているので、実際にお目にかかることはありませんでしたが、金森先生の著書には多く啓発されるところがありました。

隠岐さや香さんのコンドルセ研究、近藤和敬さんのカヴァイエス研究なども、金森先生が編纂した論文集で知ったものです。

ただ、最近ますます、いろんな本を代わる代わる読むという悪癖がひどくなり、集中して読むことができていません。その業績を詳しく紹介しまた論じる力など到底ありませんので、誰かにしていただくことを期待するほかない。

それでも、読みかじった限りで思うことを書きます。

金森先生の研究対象はエピステモロジーでした。ごく最近の文章までも、金森先生はエピステモロジーとは何であるか、説明することから始めなければなりませんでした。

エピステモロジーとは、フランスを中心に発展した、科学研究を対象にした認識論、つまり哲学の一分野であり、科学哲学の一学派と言っていいようです。ここが非常に難しいのですが、今「科学哲学」という分野として指し示される学問とは、やや違っているものです。「全く世界から孤絶している」と金森先生自身が述べています。

英米流の「科学哲学」が、科学という学問の発展してきた歴史と手法から、科学の問題点を「科学的」に追求するのに対し、エピステモロジーは人間の認識・思考の一手法として科学を捉え、それがどう発展し、どのような問題をはらんでいるかを研究する学問です。前者と後者と何が違うのか、大変分かりづらいですね。

これが「科学哲学」から見ると、エピステモロジーは科学というものが真理を追求する学問として成立している、という前提を崩していない、という見方をされ、古い学問だという言われ方をされるようです。しかし、バシュラールやカンギレムといったエピステモロジーの代表的な学者から影響を受けたフーコーが、認識論的前提は時代によって変化すると指摘したように、エピステモロジーの流れを汲むブルーノ・ラトゥールやポール・ラビノウなどの学者は、むしろ真と見なされる概念は、科学研究によって構成されるものだという構成主義をとっています。簡単に割り切ったり否定したりはできないようです。

おそらく、エピステモロジーは、科学という学問の基礎を人間の認識論的構造に見ている。現在の「科学哲学」は、トーマス・クーンのパラダイム概念に代表されるように、科学研究の成果自体が、特定の歴史・社会的条件に制約されていて、形而上学的な問題ではない、という前提が主流のようです。
野家啓一氏の「科学哲学への招待」(ちくま学芸文庫)に分かりやすくまとまっていますが、論理実証主義から始まる、科学哲学の「永遠の真理」からの決別は、クワインの経験主義批判、クーンのパラダイム概念を経て、今や科学者集団がどのように成果を産出するのか、という「科学知識の社会学(SSK)」、あるいは「科学社会学(STS)」へとまで至っているのです。
マンハッタン計画を歴史の大きな里程票に持つ「科学者の社会・政治参加」は、二〇世紀後半に科学の巨大組織化と産業化、国家政策化をもたらし、それが現在、原発事故における科学者の責任や、研究システムの暴走としてのSTAP細胞スキャンダルといった問題として表面化していることを考えると、STSの研究は極めて有益でしょう。しかし、同じ問題を取り上げた金森先生の「科学の危機」(集英社新書)は視点が少し違っています。

なぜなら、金森先生は、野家氏が解説するような英米流の「科学哲学」にはほとんど言及されないのです。晩年は、「科学哲学」ではなく「科学思想史」をやっているのだと強調されていたようですが、最後の著書の一つ「科学思想史の哲学」(岩波書店)では一章を割いて自身の研究史を語る際に、「一度として彼らの学問的世界にどっぷりつかったことはない」(「彼ら」はクワインなど:引用者)と述べ、「特殊な論理学操作と、些末な言語分析に溺れすぎた」と断じています。したがって、STSのようなアプローチは取られません。

エピステモロジーの伝統に従い、ということなのかは分かりませんが、金森先生は「科学者が社会参加する場合にどのような枠組や制度が必要か」という議論ではなく、まず「科学とは、科学者とは本来どうあるべきか」を考えなければいけない、と主張されているのです。
それは、「体制化した科学」に対する個々人の無力を自覚してなお、という前提に立っており、「〈科学批判学〉は未然の待機状態にある」という苦い主張でもあります。その背景に、原発事故に対する深い怒りと、人間の「実存的位相」を信頼したいという相反した思いがあることは、「知識の政治学」(せりか書房)の、特に第三部と、「科学思想史の哲学」の後半によく示されていると思います。

ところで、金森先生は、その論考の中でよくフィクションを引き合いに出されています。生命倫理を語る際にカズオ・イシグロの「わたしを離さないで」が出てきたり、人間性を論じるにあたって古代神話のゴーレムを例えに出したり(「ゴーレムの生命論」[平凡社新書]という本もあります)。マスコミ批判にはオーウェル「1984年」に出てくるダブル・スピークが参照されています。

もし〈3.11〉がなかったら、ゴーレムのような「亜人間」をも含めた、ある種の人間論のようなものが書きたかった、と金森先生は述べています(「科学思想史の哲学」第9章)。もしそれが書かれたなら、リラダン、シェリー、ディックなどのフィクションと、フーコー、アガンペンなどの「生政治」哲学とが交わる、刺激的なテクストになったのではないかと思われ、残念です。

ヴェルヌがしょっちゅう出てくるわけではないのですが、「地底旅行」については注釈の中に次のような一文を読むことができます。

「『地底旅行』の度外れた面白さは読んだ人にしか分からない。私は、最初は教養のために読み、二度目は仕事のために、三度目は純粋な楽しみのために読んだ」(「知識の政治学」第6章)

金森先生にとって仕事とは学問なのですから、先生は『地底旅行』を教養のために、学ぶために、楽しみのためにと、三回読むことのできる作品だと言っているわけです。一冊の書に与えられるべき賛辞として、無上のものの一つではないでしょうか。
posted by sansin at 15:19| Comment(1) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする