実は、2016年は正月から読書日記をつけ始めていたのです。しかし、最近見直したら、5月の読書会を境にぱったりと終わっていました(笑)。その後は、会誌に寄稿した2本のための参考書ばかり。会誌が完成した後は、方向性を見失ったつまみ食い的読書ばかり。
前段が長いのですが、どんな人だかさっぱり知らないパスカル・キニャールという人(どういう経歴の人かは解説に書いてありますが)のコレクションが刊行され始めて、時間論という触れ込みの「いにしえの光」というエッセイならぬ詩文集のようなものをパラパラと読んでいると、兼好法師がこんなことを言ったなどと出てくるものだから、つい徒然草を読み直していると、たまたまこんな段にぶつかりました。
※キニャールが引用した箇所ではありません。そこがどこだかは今のところ不明です。しかし、こうして翻訳の中に日本の古典を見出す気恥ずかしさは、例えば日本人がセネカなど引用するとき、彼の地の方々も覚えるものなのでしょうか。
今日は、このことをしようと思っていても、ほかの急な用件が先に生じてそれに取り紛れて一日を費やしたり、(中略)あてにしていた方面のことは外れて、思いがけないことばかりがうまくいってしまう。面倒だと思っていたことはぶじに済み、たやすいはずのことがたいへんな心労となる。日々過ぎていくありさまは、前もって考えていたようにはいかない。一年の間もこれと同じである。一生の間もまたそうである。(第一八九段、小川剛生訳[角川文庫])
いやまったくそうだよなあ、と思い、去年の今頃ブログに書いた、老い易く学なりがたしという言葉もまた実感するな、と思いながらも、今年あれこれと考えたせいなのでしょうか、実はこうした言葉もそのまま納得しないようになっているわけです。
700年も前に書かれた言葉を、自己に類似したイメージとして「理解」する、感情移入して「身につまされる」ということはどういうことなのでしょうか。こうした「言表効果」というものは何なのでしょうか。
そうした疑問を覚えることなく、現代人は常なるものを忘れてしまったなどと賢しらにいうことは、もうできなくなっているのではないか、などと(これもややこざかしくも)思いもするわけです。
そんなひねくれたことを考えたのは、フッサールや、ウィトゲンシュタインや蓮實重彦やフーコーや、郷原佳以さんのブランショ論を読んだからだったりするのですが、反復とは変化なのだということを、歳とともに実感しているからかもしれません。「前もって考えたようにはいかない」ということのようです。
それにしても、今年は小説をあまり読みませんでした。もっと読むようにします。
映画は、人それぞれ好みはあるでしょうが「シン・ゴジラ」、それからアニメ「この世界の片隅に」が素晴らしかった。
2017年も宜しくお願いいたします。
こちらはなかなか軌道に乗らない翻訳に難儀しつつ、読書初めは小沢信男『俳句世がたり』、すが秀実『タイムスリップの断崖で』を交互に。いずれも時評なので年頭にふさわしい読み物でした(まだどちらも途中)。いろいろと思うところはありますが、今年は大きな企画があります。まずはそれに向けて、着実にやるべきことをこなしていかねば。