2015年12月20日

「アインシュタインの時計 ポアンカレの地図」

前回に続き、会誌10号の特集寄稿に関連した書籍をご紹介。

この本については、10月発売ということで、書店で発見したのは投稿後だったのですが、もう2ヵ月前に目を通していれば、投稿の内容は確実に変わった本。

ピーター・ギャリソン「アインシュタインの時計 ポアンカレの地図」(松浦俊輔訳 名古屋大学出版会刊)。

アインシュタインの相対性理論が生み出された背景を、科学理論の発展のみならず、当時の産業や社会思想の状況に求めています。特に帝国主義政策化の交通・通信の発達に伴う「時計の同期」、すなわち標準時の制定とその技術的な実現(結局、無線通信が実用化されるまで精密な時刻同期は実現しなかった)が時空の相対性というアイディアに深く関わっていたという指摘は大変興味深い。

なにしろ、1870年代から始まった標準時の制定をめぐる各国の争い、経度の確定のための世界各地の測量における、あまりに脆弱な電信ネットワークと劣悪な環境での苦難など、読み進めるほどにヴェルヌ的要素が横溢します。

そして、本書の主役であるアンリ・ポアンカレ(解説はアインシュタインと相対性理論が結局は主役みたいに書いてますが、ポアンカレの方が主役としか読めません)ですが、経歴と業績がかなり詳しく書かれています。彼の評伝は日本では適当なものが見当たらないようで、それだけで大変興味深い内容です。

数学の「ポアンカレ予想」で有名なトポロジーの創始者とされるポアンカレですが、ヴェルヌと息子ミシェルが裁判に巻き込まれたときに弁護を務め、後に大統領になったレイモン・ポアンカレの従兄にあたります。数学者・理論物理学者であっただけでなく、アンリは国立理工科学校「エコール・ポリテクニーク」のエリートとして、国家の科学技術政策に深く関わっていました。当初技師として鉱山の監督を務め、キャリアを伸ばして経度局の局長に就任します。経度局こそ正に、地図と時刻を定める国家機関であり、その政策は産官学にまたがる影響を持つのです。その中で、アンリは時間とは規約であり、複数箇所における時間の同期=「時計合わせ」の関係性そのものでしかないと看破します。しかし、エーテルを否定するところまではいかず、アインシュタインに相対性理論の着想を持っていかれた形になります(特殊相対性理論は1905年発表)。ポアンカレ残念。二人は同時代をすれ違いながら、ほとんど接点のないまま1912年にポアンカレが亡くなります。

ポアンカレはアインシュタインの理論を肯定しませんでしたが、著者ギャリソンはモダニズムの二つの形式がすれ違ったのだと論じています。

ギャリソンが参照するポアンカレの論文「時間の測定」は、岩波文庫から翻訳の出ている「科学の価値」(吉田洋一訳)で読むことができます。ポアンカレの主著は、「科学と仮説」「科学の価値」「科学の方法」と、全て岩波文庫で読むことができるのです。さらに、晩年のエッセイ集「科学者と詩人」も、今春リクエスト復刊され、今はポアンカレの主著作をどれも店頭で買える好機と言えます。

実は、私は自由投稿の方でケルヴィン卿(ウィリアム・トムスン)について触れるため、「科学者と詩人」に収められた追悼文を参照していました。しかし、並んで収録されている「砲工学校校友」は読み飛ばしてしまっていました。「砲工学校」こそエコール・ポリテクニークであり、校友とはいわゆる「ポリテク生」なのです。ギャリソンはこのエッセイに見られる「ポリテク」たちの国家技師としての自意識を見逃していません。

そうすると、本書の内容が直接関わるのは〈驚異の旅〉諸作中では何といってもガンクラブ三部作の第三作「上を下への」(1889)でしょう。主人公の一人ピエルドゥーは正に「ポリテク」だからです。鉱山技師であり数学者という職業もポアンカレと重なります。
前二部作(月二部作)に出てくるフランス人がナダールをモデルにした冒険的なアマチュア、ミシェル・アルダンだったのに対し、「上を下への」では官僚コースを歩む国家技師に変わっているところに時代の変化があります。会誌7号ではアルダンの代わりにガンクラブを先導するのはアメリカの未亡人エヴァンジェリーナ・スコーピッドではないかと論じましたが、否定する立場としてのピエルドゥーの役割も無視できないということでしょう。(ピエルドゥーのモデルはヴェルヌの知人のようで、ポアンカレではありません)
さらには、北極の競売をめぐる各国のドタバタは、当時の標準時をめぐる争いがどこかに反映しているかも知れない。『八十日間世界一周』はまさに時差が主題でしたが、その後『征服者ロビュール』(1886)に日付変更線に位置するチャタム島を取り上げるなど、ヴェルヌにとっては継続した関心事であったろうからです。

こうして見ると、本書の内容は〈驚異の旅〉全体を通底している、「世界の記述」という主題と、同時代的に密接して関わっていることがよく分かります。ギャリソンはアンリの甥の手紙を紹介して述べています。
「ポアンカレが生涯、探検記や旅行記を熱心に追いかけていたことを語っている。ポアンカレの仕事はすべて、科学の内と外で、「世界地図の白いスペースを埋める」という欲求を特徴としていたのだ」(267ページ)

冒頭書いたように、この本を先に読んでいれば、特集用投稿で社会背景に触れたに違いないですし、自由投稿では「時計の同期」と、ポアンカレの名前をどこかに入れたと思います。

ちょっとお高い(税別5,400円)のと、ポアンカレの前史であるからか、電信ケーブルについてはケルヴィン卿に全く触れていなかったり、途中、時間軸を行ったり来たりしてもたつくところがあって、もうちょっと整理できるんじゃないかと思ったりするところもありますが、ヴェルヌ関連本として推していいと思います。岩波文庫のポアンカレの諸作もどうぞ。

ちなみに、「科学と方法」の終わり近くに、もうじきヴェルヌが想像で書いた地球の空洞が証明されるだろう、という記述があってちょっと驚き。地底探査が本格化するのはポアンカレが亡くなってもう少ししてからのようです。ここでもちょっと、ポアンカレ残念でした、ということで。
posted by sansin at 14:09| Comment(1) | 今日の推しコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
いやあ関心ど真ん中の本ですね。ご紹介感謝いたします。そういえば、と6年前の4月23日付のMIXI日記に書いていた拙文を引っ張り出してきました。長文ですが、コメント欄に載せられるかな。


いわゆる日付変更線が制度化されたのは、1884年、ワシントンの国際子午線会議のこと。この時に、グリニッジを通る子午線が0度ということになり、日付変更線が太平洋の真ん中を通る180度ということになった。それ以前には、各国がそれぞれの国を通る経度を基準にしていた。そういうわけで、科学の進歩という観点から国際基準の採用を主張していたわりには(そして、グリニッジの国の紳士を主人公に、日付変更線のトリックを用いた『八十日間世界一周』を書いているわりには)、ジュール・ヴェルヌは、フランスの古い度量衡にこだわり、作中の経度はすべて(ワシントン国際会議でグリニッジ子午線に敗退した)パリ子午線を0度としたものになっている。ヴェルヌというのは変な人で、メートル法(これ自体、子午線の長さを厳密に計測して割り出す単位である)について、これはそもそもフランスが革命以前からその制定を国家プロジェクトとして遂行してきたもので、その結晶であるメートル原器を世界に押し付けることに成功した経緯があり、しかも(オールダーの『万物の尺度を求めて』でスリリングに詳述されているように)実は大きな計測ミスを含んだものであって、その正当性に疑問符がつけられることこそ、フランスが最も神経質に恐れていた事態だったにもかかわらず、イギリスとロシアという二ヶ国がメートル法を採用するにあたって子午線を測りなおすという変な話(『三人のロシア人と三人のイギリス人の南アフリカにおける冒険』)を書いてしまうのである。これは天然なのか、悪意なのか。

それはともかく、ワシントン国際子午線会議において、フランスとイギリスが基準となる子午線をめぐって対立し、それをアメリカが仲裁した、という図式を子供の世界に移したのが『二年間の休暇』、つまり『十五少年漂流記』ではないか、という説を提唱したのがニュージーランド史の専門家である田辺眞人氏であった。氏によれば、ニュージーランドとその近くのチャタム島の間を日付変更線が通ってしまったため、同一の国の中で二つの日付が生じることを防ぐべく、この島を迂回するように日付変更線が引かれたという事実に基づき、ヴェルヌは、島の真ん中に湖があるというチャタム島の地勢を、チリ沖の近くのハノーバー島(しかもすぐ隣に同名のチャタム島あり)に移して、『二年間の休暇』の島を作ったというのである。これに飛びついたテレビ局が椎名誠に現地(ハノーバー島とニュージーランド近海のチャタム島)に行かせ、チャタム島こそ、十五少年の島だと確信するに至るというドキュメンタリー番組が制作され、さらには本も書かれた。

確かに魅力的な仮説ではある。しかも、チャタム島はすでに1885年執筆の『征服者ロビュール』に登場し、そこでは湖の言及こそないものの、時期的にいって、ヴェルヌが国際子午線会議を意識していた可能性は高い。『二年間の休暇』の執筆は1887年。仮にヴェルヌが『二年間』で国際子午線会議を意識した小説を書こうとしたとする。その場合、考えられるのは次の二つの場合しかない。つまり、すでにチャタム島を人の住む島として出してしまっていたため、地勢だけ移したと仮定するか(この場合、ヴェルヌは、『ロビュール』の時点ではチャタム島の地勢を知らなかったことになる)、逆に、『ロビュール』執筆の時点でチャタム島の地誌を知っていたものの、『二年間』で使うために敢えて書かずに取っておいたか、どちらかである。いずれにしても、ヴェルヌは執筆の時点で国際子午線会議を書こうとしていたという前提が成立しない限り、チャタム島がモデルという仮説は成立しない。しかし、草稿を調べると、ヴェルヌが英仏の対立をアメリカが仲介するという図式から出発していた事実はないことが明らかになる。この図式はむしろあとから固まったのである。したがって、田辺説は、現段階では、残念ながら成立しないと考えていい。

しかし、ヴェルヌが日付変更線の向こうに取り残されたかもしれない島に関心を持ったことは間違いない。ただ、ヴェルヌという人はあれで案外あからさまなアイデアには飛びつかない慎みを妙なところで持っていて、未読だがエーコの『前日島』や最近読んだエシュノーズの『グリニッジ子午線』みたいに、日付変更線が突っ切っている島の話にはいかない。エシュノーズは前から内容だけ聞いて読んでみるかと思った作品がいくつかあって、そういう作家との付き合いは大抵不幸に終わるのだが(『ぼくは行くよ』とか、なにせパリで住んでいたところの近所のメトロ12番線の終点から12番線に乗って、北極に行く話というから、これは読まないわけにはいかんと思ったものの、パストゥールより先まで行かず――つまり最初の5ページも読んでいない)、『グリニッジ子午線』もやはり、タイトルからして読まないとな、と思ったのは、堀江敏幸の『子午線を求めて』を読んでいたら言及があったからで(ちなみに、『子午線を求めて』は、文章はうまいと思うけれども作為が目立って感心できなかった――ジャック・レダの『パリ子午線』の書きなおしになっているところがあるみたいだが、元の方が読みたい。しかし、『ダ・ヴィンチ・コード』の後では、パリ子午線の話の味わいも相当に消えてしまった感がなくもない)、冒頭、いきなりその島をさまよう男女、二人の間で交わされる子午線談義で始まり、このベタさは嫌いではない。日付変更線というのは海しか通らないのに、この島の存在は気付かれていなかった云々。そしてパリに移り、三流スパイアクション紛いに、やたら巨人の組織者やら盲人の殺し屋やら謎の発明やら入り乱れて、多数の登場人物がばたばたと死んでいく。最初のうちは、無駄に力の入った細部がいい感じなのだが、だんだんきつくなって、最後は流し読みに近くなり、種明かしに至ってばかばかしくなったが、最後の最後は悪くなかった。が、やはり全体として、ヌーヴォ・ロマンの後のいわゆる「ミニュイ派」はヌーヴォ・ロマンを超えられていないという印象を払拭するには程遠い。
Posted by ishibashi at 2015年12月21日 12:45
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