地上波のTVで、それも実写で、大人向けに本格ファンタジーをやる、というのは日本では極めて珍しい、というか、すぐに思いつくのは『西遊記』くらいしかないのではないかと思います。
それを綾瀬はるか、藤原竜也といった主役級の俳優を揃えて製作した、ということだけでも意義のあることでした。
原作と話の順番を変えているという(いささか批判的な)反応があるようですが、これは番組のホームページで原作者の上橋菜穂子さんが丁寧に説明しています。原作者合意の上であれば、全く問題ないでしょう。
特に最終盤の展開はかなり原作とかけ離れていますが、主要登場人物が一堂に会する場面構築は演劇的な手法で、映像化のあり方としては理解できるものだと思います。
上橋さんは以前アニメ化された『獣の奏者』のシリーズ構成にも自ら参加されていて、その途中で『獣の奏者』は「探求編』『完結編』が書かれていますので、何らかの影響があったのではないかと思います。作者自身による続編と、他者による二次創作との関係を考える上でも興味深い事例ではないでしょうか。もしかしたら、「守り人」にも何か影響があるかもしれません。
ところで上橋さんは、とある対談で、アーシュラ・K・ル=グィンの『ゲド戦記』を「頭で書かれたものではないか」と、若干批判的なコメントをされています。上橋さん自身は、物語の原型的な部分には自然に触れて行くもので、構築的に書かれるものではない、という信念をお持ちのようです。それはそれで、何となくわかるような気がします。
しかしながら、『ゲド戦記』がいかに西洋幻想文学の原型的な主題の根幹に触れているかは、私市保彦先生の『幻想物語の文法』に詳しく書かれております。そもそも西洋幻想文学は、西洋的知(ロゴス)が神話的原型あるいは原初的欲望に触れた時、いかなる表現として現れるかという系譜ではないでしょうか。
もっとも、『ゲド戦記』はいったん3巻目で完結したように見えて、かなり後に再開した第4巻で驚くべき展開を見せる、複雑な経緯を経た一筋縄ではいかないシリーズですので、そんなことを考えながら読み返してみるのもいいかもしれません。
ル=グィンは1月22日に亡くなりました。日本では『ゲド戦記』がジブリでアニメ化されたというだけの理由からなのか、「『ゲド戦記』の作者」としてしか紹介されていないようで、『闇の左手』がSFジャンルに与えた計り知れない影響のことを思うといささか残念な気がします。ファンタジーも、「オルシニア国」シリーズなど復刊してほしいですね。
『精霊の守り人』についてごく個人的なことを言えば、あのめちゃくちゃ強くてかっこいい、綾瀬はるかのバルサがもう見れないのは名残惜しい、ということに尽きています。