目まぐるしく世の中が移り変わっていくのにも付き合いきれないな、と(個人的に)思いつつも、ヴェルヌ研はそろそろと次の活動に向けて準備中です。
忙中閑あり、とは言いますが、やはり時間があるとついテレビを見てしまうのは世代なのでしょう。最近の若い人はTVのコンテンツをネット動画で見るそうで。
習慣で見ている朝ドラは「べっぴんさん」がもうじき完結。脚本が悪い、とネットでは否定的なコメントが目立ちますが、それは先入観も多々あるのでは、と思っています。
まず、ドラマは脚本どおりに映像化されるわけではありません。ヒットした「あまちゃん」でも、シナリオ集を読むと、ずいぶんセリフや場面が変えられていることがわかります。「べっぴんさん」のHPを見ていても、引越しの場面で脚本は軽トラックだったのを自転車に変えたという裏話が紹介されたりしています。役者さんのインタビューを読んでも、ずいぶん現場でアドリブが入ったりしているようです。演出家や役者の解釈が入ると、おそらくその後の脚本にも影響が出るでしょう。
もちろん、シェイクスピアでもチェーホフでも、書かれたとおりにはならないわけで(書かれていないことだっていっぱいある)、それがお芝居というものでしょう。だから、全部脚本のせいにはそもそもできないのではないでしょうか。
もう一つは、どうやら俳優の拘束期間が、細かく決められているようで、それを超えて出番を作ることができないということ。民放のドラマ3か月分は、朝ドラの放送時間数でいうと1か月半程度です。きっちりその期間だけ出演して、あとは全く出てこない、というと、主人公の人生にそこだけしか関わらない、という不自然な設定になるのは否めないのですが、最近はそうしたキャスティングが多い。そんなことは脚本のせいではないでしょう。
個人的には、1週間刻みで事件が持ち上がり、解決する過程で主人公の人生が段階的に変化していく、という割り振りのはっきりした構成ではなく、何週も前の伏線を忘れた頃に回収するような今回の話の作り方はちょっと面白く、また点を取っていくストライカーというよりは、最初にパスを出してゲームメイクをしていくような、ちょっと引いたタイプの人物を主人公に据えたあたりはチャレンジとして、もっと評価されていいのではないかと思います。
長々と書いて、何が言いたいかというと、朝ドラほどメジャーな枠だと、ちょっと物語が定型からはみ出すだけで、人は違和感を覚えるということです。
人は、朝ドラとはこういうものだ、という先入観を持っています。主人公はこんな人物、物語はこういう構成と展開、この先入観は根深いものですし、朝ドラに限らず、多くの物事に対して人は定型的な理解をしている。
そうした傾向は、人が因果関係としての物語を作る「病」を持っているからだ、と論じているのが、千野帽子著『人はなぜ物語を求めるのか』(ちくまプリマー新書)です。「プリマー新書」は中高生向けの新書のはずですが、ナラトロジーや認知心理学のかなり難しい考え方を噛み砕きながら、深いところまで議論を掘り下げています。
「病」というと大げさなようですが、人がいかに自分の「物語」で自分や自分を取り巻く環境や社会を見ているか、その「ゆがみ」を指摘していくその手さばきは冷静で、かつ相当ラディカルです。いかに自分が、もっというなら社会が、「物語」に「毒されている」か、考えさせられます。久々にお勧めしたい一冊です。
ただあえて言いますと、私としましては、個人が自分のために求める物語というのは、ナルシシズムとの距離感の問題だと思っています。ですから、本書の主張はよく分かるものの、人が物語を必要とする切実さ、という問題はもう少し深いように思います。もちろん、それがわかっていて、「物語」への執着からいかに脱け出すのか、ということを本書は説いているのではありますが。
その一方で、そう言いつつも人は、昔ほど物語が「うまく」ない。今や万人が納得し、共有する因果関係としての「物語」を作ることはますます困難になりつつあるように思います。
つまり、「ゆがみ」はより大きくなっている。そこが問題なので、もう少しそこに踏みこんでほしかったとも思うのですが、それは求めすぎかもしれません。