2016年12月11日

「ジュール・ヴェルヌ〈驚異の旅〉コレクション」いよいよ発売! そしてアニメ雑感(ネタバレあり)

なんだかんだで、12月に入ると寒くなってきました。北海道は大雪とか。関東も北風が厳しいです。

さて、以前も告知して、オオカミ少年状態でしたが、インスクリプトから「ジュール・ヴェルヌ〈驚異の旅〉コレクション」全5巻の刊行がいよいよ開始されます。第一回配本は、これまた随分昔に告知しましたが、『地球から月へ 月を回って 上も下もなく(完訳ガンクラブ三部作)』です。刊行予定は来年1月12日。

http://www.inscript.co.jp/verne

月世界旅行2部作と、キャラ再登場の第三作「上も下もなく」の3作品が1巻にまとまった豪華版。少々お高いですが、挿絵もない文庫本が1000円以上して当たり前の昨今、挿絵と補遺、詳細な訳注と解説がついて5800円(税別)というのはむしろ安い。(あ、これも前に言ったかな・・・)

ヴェルヌの邦訳は、今後はこれがスタンダードになるであろう必携書です。お楽しみに。横の書影をクリックして、アフィリエイトから入ってご購入いただくとなお嬉しい。イジキタナサスギですか(笑)

ヴェルヌ研の年内の活動はまだ続いているのですが、そろそろ今年も回顧されてしまう時期になりました。

※以下雑談です。しかもアニメ2作品のネタバレありです。ここで語ることかね、と自分にツッコミつつ(笑)

どうやら最近、流行語というのは「話題になったことに関わりのある語」ということらしいのですが、結局、多くの人が何の気なしに面白がって使う、いわゆる「流行語」というのはもう滅びたということのようです。これは明らかに日本語の自生力が弱っているということだと思うのですが、状況を一言で象徴するには、社会が複雑化しすぎているということなのかもしれません。

「君の名は。」というアニメも、内容を一言で象徴する題名や台詞はなかったように思います。筋立てや構成が非常に良くできた映画で、「セカイ系」と言われる大きな話と、「日常系」と呼ばれる身近な話が絶妙にブレンドされています。パラドキシカルな状況を描いていますから、どこかの評で出ていたように矛盾は当然残ります。そして、良くも悪くも見終わった後に余韻がほとんど残らない。アトラクション的なライド感とカタルシスはありますが、それだけと言ってもいい。
しかし、よく考えるとそれでいいのです。この作品に観客が感情移入するきっかけは、冒頭の、「目が覚めた時になぜか涙が流れている」という、想起されないイマージュへの切なさや悲しさという感情の共有であって、逆に言えば観客と作品世界の接点はそこしかないと言ってもいいのです。だから、何も残らなくても感情の記憶だけが残る。

逆に、見終わった後の方が感情をより揺さぶられるほどで、全く逆の印象を持つのがもう一つのアニメ作品「この世界の片隅に」です。劇場を出ると、平和な街の様子に安堵します。作品世界と現実のつながりが地続きに感じられるのです。

もちろん、「青春ファンタジー」と分類されるだろう「君の名は。」と、リアリズムで戦時下を描いた「この世界の片隅に」では感想が違うのは当然でしょう。しかし、これもよく考えると、実はこの2作品は似通った部分がいくつかあります。

「この世界・・・」で失われ、最後に登場する「右手」が描き出す世界は、失われた記憶の風景であり、主人公にはもう描けなくなったために、自分がその「器」として記憶しておこうと決意する世界です。
(ですから、それは主人公が記憶しているだけではなく、想像した世界も含まれています。この関係性は、実はアニメより原作を読んだ方がよく分かります)

この、「失われた記憶のスケッチ」という主題は「君の名は。」にも出てくる。しかもそれは、死者の記憶なわけです。この、「想起する装置」として「身体の分裂」が起こるという主題が共通しているのです。
身体の一部が記憶を呼び起こすという主題は、「君の名は。」では別の形で反復され、少年が少女の世界に繰り込まれるための装置としても機能します。

そこで、黄昏時=誰そ彼どきという特権的な出会いの時空間が現出するのですが、「この世界・・・」のラストで、「右手」によって導かれた子供が主人公と出会うのも、やはり黄昏時なのです。この子供との出会いは、よみがえり、分身の主題も引き寄せます(もちろん、この子供はその前に出ていた子供とは別人なのですが)。「この世界・・・」の原作では、その直前に過去からの出会いがもう一つ描かれていて、「右手」の機能は明らかです。
「この世界の片隅に」は、リアルな描写とともに、主人公の内面のような、そうでないようなこのファンタジーの部分も見ていく必要があります。

その他にも、巨大な災厄が空から降ってくるという点、一方は湖、一方は内湾ですが、大きな水面を見下ろす場所と視点が主な舞台になっている点など、主題的な共通項はまだあります。
なぜこのように似通うのか、という理由はすぐに解き明かせるものではありませんが、両作品とも、個々人の感情や言葉では解決し得ない、言い表せない大きな出来事に対して、どのように振る舞うのかという模索の物語、いかにして世界と和解するのか、という問題を抱えた作品であることが大きいのでしょうか。

大規模商業ベースのエンタメと、小規模上映のヒューマンドラマという性質の違いはありますが、既存の言葉や物語構造が処理しきれない事象に対するアプローチとして、フィクションの技法が似ているということは指摘できるのではないかと思います。
posted by sansin at 12:18| Comment(3) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする