2016年01月27日

冬物語

大寒を過ぎ、ことさらに寒くなりました。いつまでも「年またぎ」と言っていると脚が伸びてしまうので(笑)、特別話題はありませんが雑談を少々。

何回か前にご紹介したディネセン「冬物語」(横山貞子訳・新潮社)が出ています。こういうものはじっくり読むべし、ということで全部は読んでいませんが、訳者の後記を読むと、墓碑にはカレン・ブリクセンとあるそうで、ご紹介した際に離婚したからブリクセンも筆名だろうと書いたのは私の誤解だったようです。ここに謹んで訂正をいたします。

アフリカから帰国後、第二次世界大戦中に書かれた短編集には、強い意志で厳しい状況を乗り越えようとする人々の姿が多い、と。それは読んでみなければ分からないものの、歴史的な出来事が無名の人々にあたえる悲惨さ、あるいは単に年月があたえる試練をめぐって、ディネセンが物語を紡いでいたことは、後年の「バベットの晩餐会」など読んでも理解されることでしょう。

ハンナ・アレントは「暗い時代の人々」の一章をディネセンに割いていますが、運命を物語として実現させるという思想をディネセンの中核に見ることはいささか違うように思います。それでは、彼女とアフリカとの遭遇という「出来事」を理解することはできないでしょう。

「暗い時代の人々」はもちろん、ベンヤミンやブレヒトについてのエッセイに読みどころがあるのですが、ベルグソンといい、ヴァレリーといい、チャペックもしかり、ナチス・ドイツの支配下で、あるいはスターリン政権下で、その業績にふさわしからぬ形で人生を終えた人々は多いわけです。

そういえば、チェペックの最後の長編も邦訳が刊行されるとか。そんな風に、網目をたどるように読書遍歴は続くのです。筒井康隆「モナドの領域」からリオタールを読みはじめ、さかのぼれば文庫クセジュ「現象学」から始まり、と、きりがないのですが、やめられないのです。
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2016年01月01日

年またぎ雑感

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

本当は去年のうちに書いておこうと思ったことを年明けに書きます。年賀状の書き忘れみたいですね(笑)

前回(去年)の石橋会長の投稿はちょっと難しいところがありましたね。以前にも書かれていた内容で、私もよく分かってるわけじゃないのですが、若干解釈しましょう。

会誌9号を読まれた方はご存知でしょうが、ウィリアム・ブッチャーという人は、編集者エッツェルによるヴェルヌ原稿の「編集」、修正や時には一部文章を足したりするほどの「介入」を全面的に批判し、ヴェルヌのオリジナル原稿の方が優れているのだと主張する立場。要するに、エッツェルなんか介入しなくてもヴェルヌは立派に〈驚異の旅〉を作り上げた、と。

石橋会長は、エッツェルの介入は必然とまでは言わないけれど、本人たちの意図せざるレベルにいたるまで、今私たちが読む連作〈驚異の旅〉が成立するのに不可欠な要素であったと「認める」立場。ヴェルヌがエッツェルなしには何もできなかった、というわけではないけれど、エッツェルという存在の好影響も悪影響も、ヴェルヌという作家のパワーの源の一つであった、と。

それで、石橋会長のブッチャー論文評につきましては、まずフローベールは厳格な文章彫琢で、「揺るぎない」本文を確定しようとしたわけですが、それはすなわち「こうあらねばならない」という必然的な「作品」を完成させる、いわば偶然性を廃そうとした試みであった、と。編集者の口出しなどもってのほか、ということです(ちなみに「ボヴァリー夫人」の「編集者」はマクシム・デュ・カン)。

対して、毎年休みなく「教育と娯楽」誌へ連載するためにネタを探し、青少年への啓蒙を目的とし、諸々の事情で内容の見直しも必要となる〈驚異の旅〉諸作品は、ヴェルヌとエッツェルとのコミュニケーションの中で、偶然性に左右されながら成立していくわけです(「〈驚異の旅〉あるいは出版をめぐる冒険」参照)。
そういう種々の偶然的な、作品外の要素を石橋会長はとりあえず「物質性」と呼んでいる。それは「諸事情」もそうですし、文章レベルの間違い、出版時の誤字脱字といった「偶然」も含むでしょう。

ブッチャーがヴェルヌを「フローベールのような作家」として評価したい、のかどうかは分かりませんが、エッツェル抜きのヴェルヌを賞賛するためには、その「物質性」、「諸事情」や校正過程でのオリジナルからの変更をすべて取り除かざるをえなくなった。しかし、最後に残った人間ヴェルヌという「物質性」は排除できず、その全面肯定のためにエッツェルを全面批判することになる。

と、いうことだろうかと思います。
浅学非才の身を顧みず、あえて私見を述べるなら、ヴェルヌというのはフローベールほど自分に自信のある作家ではなかったのではないかな、と思います(エッツェルとの書簡のやりとりを知るだにその思いは深まります 笑)。ヴェルヌの凄みとは、そうした介入によって体裁を整える作品としての完成形とは別に、その「物質性」に対する感覚の異常さにあるのではないか、と。それは具体的にどういうことかというと、あまりにも長たらしくなるのでここでは述べません(笑)。ヴェルヌという作家は、本人自身もまだまだ謎の多い作家なのです。

もう一つは、「物質性」は当然フローベールも排除しきれるものではなく、蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』は、完全に確定された「ボヴァリー夫人」の「テクスト」は存在せず、まずその「物質的」な不完全さという「歴史性」を肯定するところから議論を開始しています(それゆえに、「エンマ・ボヴァリー」という記述が一箇所もない、という異常性の指摘が説得力を持つ)。そもそも、「書かれた言葉は常に他人の言葉でしかない」という蓮實の「テクスト」概念は、いわゆる記号論やコミュニケーション論に基づく「テクスト」概念とはかなり異なっているものではないかと個人的には思うのですが、まあこれもここでくだくだ述べることではありますまい。

今「作品」を論じるとは、そうした、「とりあえず」固定された記述を、揺れ動く「偶然性」(それは過去に起こった限り「歴史性」といわれるのでしょう)において評価する行為ということになるのでしょうか。しかし、そもそもテクスト内部において「歴史性」とは何なのか、ということも興味深いと思っています(ヴェルヌの「異常さ」とは、その辺りにあるような気もしているのです)。

そんなこんなで、ヴェルヌとその周辺をめぐる考察は今年も続きます。

年間の読書ベスト3を2015年もしておきましょう。しかし、去年は読みかけて読み終わっていない書物が死屍累々と積み上っていて、収穫は少なし。

まず何といってもスタニスワフ・レム「短編ベスト10」(国書刊行会)。母国ポーランドで編まれた、読者・編者・作者の希望を元にしたベスト15の短編集のうち、「完全な真空」(国書刊行会で既訳あり)収録作を除く10作を翻訳。
第一に、泰平ヨンシリーズのうち、ハヤカワ文庫版「航星日記」収録の短編は新訳を楽しむことができます。旧訳(もっとも、今ハヤカワ文庫で出ている版は近年補訳・改訂がされています)との比較もできる環境が整いました。第二に、泰平ヨンのうちハヤカワ版「回想記」収録作、「ロボット物語」「宇宙創世記ロボットの旅」収録作は現在ハヤカワ版は在庫切れのため、久々に日本語で読めるようになりました。特に「A・ドンダ教授」は傑作中の傑作。
さらに、孤高の傑作「仮面(マスク)」が何十年ぶりかで訳出。ゴシック調で始まりつつ、人工知能とナラティブの問題を一人称でやってのけるという、伝統文学をSFが超越するレムの真骨頂。

次に、マルグリット・ユルスナール「ハドリアヌス帝の回想」と「黒の過程」。どちらも大傑作で、もっと早く読まなければいけなかったもの。近代文学の主題を排しつつ、なお散文芸術としての小説を書く、という驚異。
甲乙付け難いですが、やはり「黒の過程」を押します。ゼノンの後に、「近代」が押し寄せてくることになるのです。

これだけだと2作品だけですが、2015年はこれだけにしておきます。本来はディレイニー「ドリフトグラス」、文庫版完結した鴎外「椋鳥通信」、ブランショ論の秀作などなども挙げられるべきものだったのですが、何しろちゃんと読み終わらないままになってしまっているので、厳しく己を律して挙げないものとします。

それどころか、2015年に何を読んだかちゃんと覚えていないような。ということで、2016年のベストには、2015年以前に出版されたものばかりになるかもしれません(笑)。

少年老いやすく、どころか、中年老いさらばえて学成り難し。頑張らねば。
posted by sansin at 20:39| Comment(3) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする