2015年10月03日

ウィリアム・ブッチャーの新著

随分とご無沙汰してしまいました。石橋です。これだけ間が空いてしまうと投稿の方法すら忘れていた体たらくです。今後はもう少し小まめに投稿するようにしないといけません。

今年は、この数年フランス語で準備されてきたヴェルヌ研究書が期せずして同時に刊行されており、まず三月に拙著が出ました。2007年にパリ第8大学に出た博士論文の増補改訂版ですが、2011年10月にダニエル・コンペールから彼の監修するヴェルヌ研究叢書に入れないかという有難い申し出をいただき(たまたま弟の結婚式のために滞在中だった金沢のホテルのロビーのPCでそのメールを受け取ったために、個人的には忘れがたいのですが)、早速改訂作業を行い、その余勢を駆って、途中までで投げ出していた日本語版も完成させたのでした。そういうわけで、実は、フランス語版の方が先に出るつもりでいたのですが、結局、左右社からの日本語版刊行が先になり、ほぼ同時に進行していたフォルカー・デースの『ヴェルヌ伝』の出版にも先を越されました。かようにフランスの出版は気が長いものらしく、同じく2011年7月にデース氏からお誘いをいただいた共同論集(ジャン=ミシェル・マルゴというスイス出身でアメリカ在住のヴェルヌ研究者・蒐集家に捧げられた企画)の方もさらに遅れて来週出ることになっています(ちなみに、弟夫婦のところでも先月待望の第一子が産声を上げました――まったくの私事で恐縮ながら、個人的にはこれら一連の出来事は切り離せず……)。とはいえ、ご存じのように、日本の出版界ではさらに気の長い話があるわけなんですが……

それはともかく、今日ご紹介したいと思うのは、標題に挙げましたように、これまた、ここ数年近刊予告が出続けていたウィリアム・ブッチャーの新著、Jules Verne inédit : les manuscrits déchiffrés (ENS Editions)です。仮に訳しておけば、『未刊行のジュール・ヴェルヌ:解読された草稿』となりましょうか。500頁近い大著であり、父エッツェル時代の〈驚異の旅〉16作(+補足的に、『イギリスとスコットランドへの旅』『スカンジナヴィアにおける三人の旅行者の悲惨道中』『気球に乗って五週間』)の草稿を精査し、刊行ヴァージョンとの主要な異同を洗い出した、文字通りの労作です。草稿の写真も豊富に載せられています。ブッチャーの事実調査が概ね信用のおけるものであることはこれまでの業績に示されていますし、今後のヴェルヌ研究における基本書の一冊になるのは、ざっと頁をめくりさえすれば誰もが認める著作でありながら、実のところ、どのように迎えるべきなのか、個人的には大いに戸惑いがあり、その戸惑いは何人かのヴェルヌ研究者の間で共有されていました。というのは、ブッチャー氏の真摯さは疑えないとはいえ、彼の議論はしばしば独断的であり、とりわけ、エッツェルの介入に対する評価は、極めて感情的な全否定に走る傾向があり、本書の結論が「ヴェルヌを脱エッツェル化すべきか?」と題されている時点で、この傾向が強まりこそすれ、弱まっていないのは明らかでした。そして、僕自身の立場はこれとはまったく反対である以上、そして、一冊ご恵送に与り、謝辞で名前を挙げていただいているだけになおさら、これまでのように、ブッチャー氏の事実調査だけから恩恵を受け、細かい議論については個別的に機会があれば反論する、という小手先の対応は許されないと覚悟せざるをえませんでした。今回は、本質的な部分で応答しないといけない――そういう思いで、なんとか数ページの書評をフランスのジュール・ヴェルヌ協会に書きました。近く出るはずの189号に掲載予定ですが、同じ号には、ヴェルヌの草稿研究をしているフィリップ・シャイナルトも周到かつ長文の批判的書評を寄せており、同書の重要性に見合った応答になっていると思います。僕自身の書評の要旨は、フロベールが、言葉の物質性以外のあらゆる物質性を文学から排除しようとしたのに対し、ヴェルヌとエッツェルはまさにこの排除された物質性を一手に引き受けたこと、この点にヴェルヌの独自性があるとすれば、ブッチャーは、それを自身の研究から排除する一方(編集過程や編集者とのやりとり、あるいは出版契約や挿絵は重視しないと最初に宣言されています)、純粋状態の物質性として、保護されるべき脆弱な書き手の「自我」(これこそフロベールが真っ先に否定したもの)を見出し、そこから草稿の異同を洗い出す情熱を汲み取っている、というものです(ちょっとわかりにくいかもしれませんが)。フローベルとヴェルヌが正反対の方向から突き当たったこの時代の文学の問題に向かい合おうとしないブッチャーの姿勢は確信犯なので、いまさら批判しても始まらないと考えた結果、こういう(やや苦しまぎれの)アクロバティックな議論を編み出した次第でした。

しかし、おそらく日本のヴェルヌ愛読者の皆さんに興味があるのは、以上のような業界事情ではなく、ブッチャーの本に盛られた新情報だろうと思います。すでに単発の論文や英仏の批評版の註で披露されている情報が基本的には多く、それらが改めて一覧になっているのが研究者にとっては貴重だと思います。『海底二万里』の章は、比較的新情報が目につき、特に、オオダコとの戦いで犠牲になったナウティルス号の乗組員が叫んだフランス語が「ほかの乗組員への呼びかけ」と草稿では書かれていた事実(つまり、ほかの乗組員もフランス人だった可能性がある)に注目し、ネモが沈めた軍艦が「ソルフェリーノ」型だったという既出の情報と合わせ、ネモたちがナポレオン三世のフランスに反逆するフランス人だったのではないか、という大胆な仮説を提出しています。僕自身は、ヴェルヌにそんな発想ができたとはちょっと信じがたく、仮に、ナポレオン三世をネモが敵にしていたとしても、散見されるスペインへの暗示と関連させて、それは彼がメキシコ人だったから、と考える方がまだ納得が行くし、個人的に魅力を感じなくもないのですが、この仮説の可能性も低いように思います。
posted by ishibashi at 03:15| Comment(2) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする