2016年08月14日

ヴェルヌ研九州へ

ここ数日、西日本では体温を超えるような暑さが続いていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

さて、ホームページには掲載済ですが、日本ジュール・ヴェルヌ研究会は、10月30日(日)に「第二回文学フリマ福岡」に参加することが決定しております。時間は11時〜16時です。ブースはまだ決まっておりませんので、決まり次第ご報告いたします。

そして、その前日10月29日(土)には初の九州例会を開催いたします。

・開始 : 13時〜(予定)
・場所 : 福岡市立西市民センター第2会議室

詳細は追ってお知らせいたしますが、何かイベントができれば、と鋭意検討中です。

初の九州上陸。西日本の会員の皆様、お時間があれば是非足をお運びください。お楽しみに。
posted by sansin at 14:05| Comment(0) | 研究会の活動 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月27日

夏の雑談

みなさまこんにちは。

ヴェルヌ研は5月の読書会を終え、今は各自が次号会誌へ投稿する準備中(のはず)。このブログもまたずいぶん間が空いてしまいました。

世の中は色々なことが起こりすぎて、まあそれに対して個人的に言いたいことがないわけではないのですが、このブログは「基本的には」ヴェルヌに関係あることを会員が投稿し合うものですので控えます。

最近、ヴェルヌ関連でトピックスがあるとすれば、やはり角川文庫から「海底二万里」が渋谷豊氏の新訳で刊行されたことでしょう。映画化の情報が流れ、最近の古典新訳の気運に乗っての出版ではないかと思います。角川は良くも悪くも、安価な電子書籍が同時にリリースされるので、手に入れやすいことは確かです。

若い方々に親しんでいただくためでしょうか、表紙は現代風のイラストで上巻がネモ船長、下巻がアロナックス、ネッド・ランド、コンセイユの三人が描かれています。下巻の三人は原書の挿絵に慣れていると違和感がありますし、本文中の描写とも少し違うような気がしますが、まあいいでしょう。

逆にネモ船長は、イメージが固定しているようで、それほど違和感がないのが却ってすごいということかもしれません。

原書の挿絵は岩波少年文庫の私市保彦先生訳などでご覧いただけます。

文体はおそらく初めてだと思いますが、語り手アロナックス教授の一人称をですます調で記述しています。これについては好みの問題もあって判断がなかなかつかないところではあります。特にクライマックスの崇高にまで高まる緊張感が果たして表現し得ているか、よく読み込んで比べてみるのも面白いかもしれません。

また重要なことは、日本で初めて、プレイヤッド版を底本にした翻訳であるということでしょう。ガリマール社のプレイヤッド版といわれる叢書は、訳者後記にもあるとおり、収録されれば殿堂入りしたようなもので、2012年に収録されたヴェルヌも、本国で古典作家と認定されたと言えるでしょう。

もっとも、当研究会の熱心なフォロワーのみなさまは、ヴェルヌの原書に通常単行本と挿絵版の2種類があって最終版が明確でないこと、草稿や複数種の刊行本の異同を検証した、厳密な校訂版がフランスでも未だに存在していない、ということもご存知かと思います(ご存知なくても仕方ありませんか)。

石橋正孝さんの研究によれば、「海底」については、ヴェルヌが最終的に校正したのは通常単行本の可能性が高いということで、これに依拠した邦訳は今のところ一種類しかないのではないか(岩波少年文庫の旧訳)とのこと。この辺については、会誌第5号の石橋さんの論考をご一読ください。また、石橋さん著「〈驚異の旅〉または出版をめぐる冒険」(左右社)も是非。

本国でも挿絵版を校訂するのが一般的で、プレイヤッド版も挿絵版が元になっていますから、草稿研究の成果が校訂や翻訳に生かされるのはまだこれから、という状況です。

映画化となればあちこちの出版社から邦訳が出て(「ジャングル・ブック」が三社から一度に出る奇怪)、一時的に消費される、ということの繰り返しは、「海底二万里」ほどの作品についてはもう十分ではないか、と考えます。厳密な校訂を経た研究版と、それを元にした翻訳が出る日が待たれます。その時初めて、ヴェルヌは古典作家としての地位を確立できるのかもしれません。
最近のSFマガジンで「ハヤカワ・SFシリーズ」(その昔「銀背」と言われた版)の解説が特集された際、「地底旅行」をめぐって「ハテラス船長の冒険」、「氷のスフィンクス」も地底旅行ものだと紹介されていて大変残念に思いました。どちらも地底になど行きません。「ハテラス」は北極、「氷のスフィンクス」は南極に行くのです。

まだまだ、ヴェルヌは知られざる作家と言えるのではないでしょうか。

「氷のスフィンクス」の元ネタ、エドガー・アラン・ポー「アーサー・ゴードン・ピムの冒険」については、集英社文庫ポケットマスターピース「E・A・ポー」に巽孝之先生の新訳が収録されています。解説で、最新の研究を盛り込んだと銘打たれていますので、これは改めてよく読んでみたいと思います。

ポーのように、「マスターピース」としてヴェルヌが取り上げられる日はいつか来るのでしょうか?


posted by sansin at 10:36| Comment(4) | 今日の推しコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月20日

金森修先生を悼む

5月26日に、元ヴェルヌ研会員で、東京大学大学院教授の金森修先生が亡くなられました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

金森先生はごく初期に参加されており、会誌第二号では読書会にも参加されていらっしゃいます。
私は創立三年目から活動に参加しているので、実際にお目にかかることはありませんでしたが、金森先生の著書には多く啓発されるところがありました。

隠岐さや香さんのコンドルセ研究、近藤和敬さんのカヴァイエス研究なども、金森先生が編纂した論文集で知ったものです。

ただ、最近ますます、いろんな本を代わる代わる読むという悪癖がひどくなり、集中して読むことができていません。その業績を詳しく紹介しまた論じる力など到底ありませんので、誰かにしていただくことを期待するほかない。

それでも、読みかじった限りで思うことを書きます。

金森先生の研究対象はエピステモロジーでした。ごく最近の文章までも、金森先生はエピステモロジーとは何であるか、説明することから始めなければなりませんでした。

エピステモロジーとは、フランスを中心に発展した、科学研究を対象にした認識論、つまり哲学の一分野であり、科学哲学の一学派と言っていいようです。ここが非常に難しいのですが、今「科学哲学」という分野として指し示される学問とは、やや違っているものです。「全く世界から孤絶している」と金森先生自身が述べています。

英米流の「科学哲学」が、科学という学問の発展してきた歴史と手法から、科学の問題点を「科学的」に追求するのに対し、エピステモロジーは人間の認識・思考の一手法として科学を捉え、それがどう発展し、どのような問題をはらんでいるかを研究する学問です。前者と後者と何が違うのか、大変分かりづらいですね。

これが「科学哲学」から見ると、エピステモロジーは科学というものが真理を追求する学問として成立している、という前提を崩していない、という見方をされ、古い学問だという言われ方をされるようです。しかし、バシュラールやカンギレムといったエピステモロジーの代表的な学者から影響を受けたフーコーが、認識論的前提は時代によって変化すると指摘したように、エピステモロジーの流れを汲むブルーノ・ラトゥールやポール・ラビノウなどの学者は、むしろ真と見なされる概念は、科学研究によって構成されるものだという構成主義をとっています。簡単に割り切ったり否定したりはできないようです。

おそらく、エピステモロジーは、科学という学問の基礎を人間の認識論的構造に見ている。現在の「科学哲学」は、トーマス・クーンのパラダイム概念に代表されるように、科学研究の成果自体が、特定の歴史・社会的条件に制約されていて、形而上学的な問題ではない、という前提が主流のようです。
野家啓一氏の「科学哲学への招待」(ちくま学芸文庫)に分かりやすくまとまっていますが、論理実証主義から始まる、科学哲学の「永遠の真理」からの決別は、クワインの経験主義批判、クーンのパラダイム概念を経て、今や科学者集団がどのように成果を産出するのか、という「科学知識の社会学(SSK)」、あるいは「科学社会学(STS)」へとまで至っているのです。
マンハッタン計画を歴史の大きな里程票に持つ「科学者の社会・政治参加」は、二〇世紀後半に科学の巨大組織化と産業化、国家政策化をもたらし、それが現在、原発事故における科学者の責任や、研究システムの暴走としてのSTAP細胞スキャンダルといった問題として表面化していることを考えると、STSの研究は極めて有益でしょう。しかし、同じ問題を取り上げた金森先生の「科学の危機」(集英社新書)は視点が少し違っています。

なぜなら、金森先生は、野家氏が解説するような英米流の「科学哲学」にはほとんど言及されないのです。晩年は、「科学哲学」ではなく「科学思想史」をやっているのだと強調されていたようですが、最後の著書の一つ「科学思想史の哲学」(岩波書店)では一章を割いて自身の研究史を語る際に、「一度として彼らの学問的世界にどっぷりつかったことはない」(「彼ら」はクワインなど:引用者)と述べ、「特殊な論理学操作と、些末な言語分析に溺れすぎた」と断じています。したがって、STSのようなアプローチは取られません。

エピステモロジーの伝統に従い、ということなのかは分かりませんが、金森先生は「科学者が社会参加する場合にどのような枠組や制度が必要か」という議論ではなく、まず「科学とは、科学者とは本来どうあるべきか」を考えなければいけない、と主張されているのです。
それは、「体制化した科学」に対する個々人の無力を自覚してなお、という前提に立っており、「〈科学批判学〉は未然の待機状態にある」という苦い主張でもあります。その背景に、原発事故に対する深い怒りと、人間の「実存的位相」を信頼したいという相反した思いがあることは、「知識の政治学」(せりか書房)の、特に第三部と、「科学思想史の哲学」の後半によく示されていると思います。

ところで、金森先生は、その論考の中でよくフィクションを引き合いに出されています。生命倫理を語る際にカズオ・イシグロの「わたしを離さないで」が出てきたり、人間性を論じるにあたって古代神話のゴーレムを例えに出したり(「ゴーレムの生命論」[平凡社新書]という本もあります)。マスコミ批判にはオーウェル「1984年」に出てくるダブル・スピークが参照されています。

もし〈3.11〉がなかったら、ゴーレムのような「亜人間」をも含めた、ある種の人間論のようなものが書きたかった、と金森先生は述べています(「科学思想史の哲学」第9章)。もしそれが書かれたなら、リラダン、シェリー、ディックなどのフィクションと、フーコー、アガンペンなどの「生政治」哲学とが交わる、刺激的なテクストになったのではないかと思われ、残念です。

ヴェルヌがしょっちゅう出てくるわけではないのですが、「地底旅行」については注釈の中に次のような一文を読むことができます。

「『地底旅行』の度外れた面白さは読んだ人にしか分からない。私は、最初は教養のために読み、二度目は仕事のために、三度目は純粋な楽しみのために読んだ」(「知識の政治学」第6章)

金森先生にとって仕事とは学問なのですから、先生は『地底旅行』を教養のために、学ぶために、楽しみのためにと、三回読むことのできる作品だと言っているわけです。一冊の書に与えられるべき賛辞として、無上のものの一つではないでしょうか。
posted by sansin at 15:19| Comment(1) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする